planet roll call・前

 1:
 声がする。
 その声によれば、その男には名前があったという。
 ひっくり返ったままの船から、その男は這い出てきた。
 乗り込むときは靴で踏みつけた足場へ、両手をついてから外へ出る。男の指がまず最初に触れたのは砂の感触と、それから舗装された道だった。
 砂を払って立ち上がった男が回りを見渡すと、果てしなく広がる荒れた大地と、水路に沿って建ち並ぶ家の群れが見えた。よくよく見ると、左足は荒野に、右足は街の中に立っていることに気付いた。左側には地面から少し浮かびあがったところに街が、右側には地面から浮かびあがったところに荒野が、それぞれ同時に見えていることにも気付いた。
 何だ、ここは?
 そう思うより先に、男は音を聞いた。キー! とも、ゴー! ともとれる音が、男の中に入り込んで揺れ、そして出て行った。その瞬間、荒野が消え、男は街の中に居た。地面に手を触れてみるが、そこには既に荒れた地面はなく、細く長く伸びる舗装された道があるばかりだった。
 その上を歩けば靴が音を立てる。
 建物に手を触れてみれば、感触があり、寄りかかることもできる。
 そこで、男にとってあの荒野は幻となった。
 また音がした。
 音は男の中で揺れ、出て行った。
 その音で男は用事を思い出し、家に帰ることにした。
 また音がする。
 また音がする。
 また音がする。
 ふと、男は、何かを忘れていることを思い出した。
 また音がする。
 男は何かを忘れていることを忘れた。
 男は道に沿い、靴音を鳴らし、家に帰ることにした。


 声がする。
 その声によれば、その男には名前があったという。
 渦巻く音の下で、声が延々と呪文のように唱えている。
 その男の名はAstro-Ho。
 その男の名はAstro-Hoなのだと。


 2:
 声がする。
 その声によれば、Hoには家があったという。
 Hoが歩く後ろでは、今もキー! ともゴー! ともとれる音が鳴り続け、Hoの視野に先回りしている。分かれ道に至り、右か左か迷っていると、また音が鳴り、Hoは右に進むことを思い出した。見慣れない街並みを奇妙な思いで歩いていると、また音が鳴り、Hoは懐かしさを思い出した。
 そうして何十回かの音を聞くうちに、Hoはある家に着いた。
 また音が鳴り、Hoはそれが夢に見た我が家なのだと思い出した。
 揚々とドアに手をかけ、開くと、ザー! という、ラジオから聞こえてくるようなホワイトノイズが聞こえた。そして中に入り、呆然とする。
 そこでは地面から電灯が生え、天井に向かって伸びていた。Hoが床を踏むと電灯はその震動で揺れ、ぐっと天井に引っ張られているように動く。Hoが天井を見ると、椅子とテーブルと本棚が全て天井から生えていた。
 音がする。キー!
 音がする。ザー!
 音がする。ゴー!
 するとそこに続いて鳴る新たな音が来た。その音は足音で、天井を走るいくつかの音だった。Hoがそれに気付いて天井を見ると、子供が天井から生えたドアを開け、天井を走っているのが見えた。
 子供の後ろから二つの影が緩慢な動きで現れ、脱力したような格好で止まった。影は人影でなく、黒一色の文字通り影だった。子供は影の周りを回りながら楽しげに言う。
 パパ、ママ!
 影は倦んだように無言。子供は揚々と言う。
 パパ、ママ!
 するとまた天井から生えたドアが開き、そこから新たな二つの影が現れた。子供は揚々と言う。
 パパ、ママ!
 するとまた影が現れ、子供が言う。
 パパ、ママ!
 これを繰り返すうちに天井は影の暗闇で覆いつくされた。子供はその間を縫うように走り回り、陽気な様子で二つの影の手と思しき部分を取り言う。
 明日なら人を殺してもいいの?
 今日なら人を殺してもいいの?
 昨日なら人を殺してもいいの?
 するとドアが強い勢いで開き、全ての影が吸い込まれるように掻き消えた。その場に残された子供はぐるっと首を回しHoを見て言う。
 どうして人を殺しちゃいけないの?
 音がした。キー!
 その瞬間に家の中にあったものの全てと子供の姿が不気味なほどに歪み、膨らんだかと思えば次の瞬間には消えた。床のような天井も消え、天井のような床も消えた。
 そのとき、Hoは荒野に立っていた。
 あたりを見回すが、ついさっきまで歩いていたような街の姿はどこにもない。地の果てまで続く地面はひび割れ、人の気配はまるでない。あるものは、線を結ぶように等間隔で立ち並ぶ塔と、その上に取り付けられたメガホンだけ。
 短いノイズの後、メガホンは音を発した。
「本日・682度目の・点呼です」
「応答を・お願い・します」
「抵抗は・無意味」
 そして音がする。キー!


 3:
 声がする。
 その声によれば、Hoには足跡があったという。
 天井が床で床が天井だった家が消えた場所から延々と続くひび割れた荒野を、Hoは延々と歩いていた。点呼するメガホンからひたすら遠くへと離れようとするが、聞こえてくるキー! ともゴー! ともとれる音は一向に小さくならない。それはHoがメガホンから離れて歩こうとしているうちに、別のメガホンへと近づいていってしまっているためだった。
 音がする。キー!
 メガホンからメガホンへという歩みを数回繰り返したとき、Hoは自分が同じところを延々と歩いているのではないかという疑念を持った。キー! という音がするたびに起こる奇妙な感覚が、気付かないうちにメガホンの周りを回るような歩き方をさせているのではないかと、Hoは思った。なのでHoは、一歩ごとを強く踏むことで、地面にくっきりとした足跡をつけ、その跡をまっすぐにしながら歩くことにした。風はなく、足跡がかき消されることもない。そのようにしてHoは十歩ごとに振り返りながら、まっすぐ歩くことに成功した。
 音がする。キー!
 その音がした後の十歩でHoが振り返ったとき、Hoはまっすぐ続いているはずの足跡が、新しくつけた十歩分だけ大きく曲がってしまっていることに気付いた。
 やはりだ。やはりあのキー! という音が、何もかもを歪めているのだ。Hoは思い至り、大股になりながら、まっすぐな足跡を続けていった。
 音がした。キー!
 その音の後の十歩でHoが振り返ると、向こう三歩分で足跡が途切れていた。何事かと思いHoがあたりを見回すと、足跡はHoのすぐ右側で伸びていた。Hoは自分でも気付かないうちに、思い切り振り返り、そのまま歩こうとしていたらしい。
 また音がした。キー!
 その音でHoが気付くと、今までつけてきたまっすぐの足跡のすぐ隣に、反対方向へ向かう足跡がいつの間にか現れていた。Hoは目を疑い、どちらの足跡が本物の足跡だったかを考えた。
 そうこうしているうちにまた音がした。キー!
 するともう一列の足跡が現れた。Hoが悩んでいるうちにまた音が鳴り、また足跡が増えた。驚いているうちにまた音が鳴り、また足跡が増えた。そうしているうちに、Hoには元の足跡がどれだったかまったくわからなくなった。
 Hoはついに痺れを切らして、ぐるぐるとその場で回った後にでたらめな方向へ走り出した。その間に何度も鳴るメガホンからの音を気にも留めず、力の限り走り続けた。すると遥か前方にメガホンが見え、Hoはそこも走り抜けてしまおうとし、メガホンを通過するあたりでぴたりと足を止めた。
 メガホンのすぐ向こうで、広く、深く、底の見えないほど果てしない奈落が広がっていたためだ。飛び越えるには、あまりに幅が広く、落ちてしまうには、あまりに深い。
 だがそのとき、Hoは気付いた。この目の前にある奈落も、本当のところは存在せず、あのメガホンの音が見せる幻影なのだと。そう思った途端に、奈落への恐怖がすっきり消え去った。奈落に見えるこの場所は、何のことはないただの地面なのだと。Hoはそう考えたので、何のことはないこのただの地面を突っ切り、また走ることにした。
 するとその瞬間にメガホンから短いノイズがあり、音が発せられた。
「本日・1000度目の・点呼です」
「応答を・お願い・します」
「落胆は・無意味」
 そして音がする。キー!
 するとHoの目の前にあった奈落が唐突に広がり、Hoの足元まで達した。Hoはただの幻影でしかない奈落が足のすぐ下まで来るのを呆然と眺めていて、そのまま何のことはないといったふうに走り始めようとして、そしてそのまま、吸い込まれるようにして落ちていった。