planet roll call・中

 4:
 声がする。
 その声によれば、Hoには過去があったという。
 そのとき、Hoは既に街の中にいた。奈落に落ちてどうにかなったのかは判然とせず、とにかくHoは街にいた。遠くには山があり、家は河に沿って建つ、あの街だ。山にもやのようにかかる雲は微動だにせず、地の上を吹く風はひとたび吹いたときのまま、長きに渡って止まったままの、あの街だ。一度は消えたはずの街に、Hoは再び立っていた。
 音がした。キー!
 メガホンだ。ここにも変わらずメガホンがあり、あの音を鳴らしている。音のほうを見れば、メガホンはやはり等間隔に、線を結ぶようにして並んでいた。その近くには大きな河があり、そこに見る限り一つだけ、巨大な橋がかかっていた。橋の上にはとてつもなく濃い霧がかかっていて、僅かにも見通すことができない。 
「Ho、こっちだ」
 突然呼ばれた名前に振り返れば、そこに人が立っていた。その顔に見覚えがあったが、Hoには思い出せない。誰かに似ている、というのではなく、過去に会ったことのある、という確かな感覚がHoにはあったが、思い出すことはできない。
「私を知っているのか?」
 Hoがそう聞くと、人は肯定するでも否定するでもなく言った。
「いずれ知る」
「船が壊れてしまった。どこかに船はないか?」
「お前の船は壊れてなどいない」
「どういうことだ?」
「だが飛べもしない。船ならここにあるものに乗っていけばいい」
「ここに船があるのか?」
「あるが、乗せるには条件がある」
「どういう条件だ?」
「人を騙るのだ」
「悪事を働けということか?」
「人を騙っているうちは、音を聞かずに済むのだ」
「なぜそうすることが条件なんだ?」
「既にそうしたお前が船に乗っている」
「私が? 私ならここにいるが?」
「お前はあの橋を越え、船の中のお前と同一にならなければならない。そうお前が決めたのだ」
「いったい私はここで何をやっていたんだ? 思い出せない……」
「いずれ忘れていたことを忘れる」
 そう言ったのを最後に、人は広場へ向かい、群集の中に紛れた。そのとき、不意に、またあのザー! というノイズが聞こえたかと思うと、Hoの見ているものが歪んだ。広場の群集は蝋燭の火のように風に吹き消され、その街の中にまたHoだけが取り残された。
 次にまたザー! というノイズが聞こえたかと思うと、頭上にある空が急速に赤く染まっていき、夕暮れのような色合いになった。
 そしてまたノイズがする。今度はザー! という音ではなく、ごく短い、あのメガホンから発せられるノイズだ。Hoはそれに気付くと、橋のそばのメガホンを見た。
「嵐が・来て・います」
「嵐が・来て・います」
「嵐が・来て・います」
 そして音がする。キー!


 5:
 声がする。
 その声によれば、Hoには良心があったという。
 広場の時計がぐるぐると回り続けるのを呆然と眺めていたHoは、広場にある時計の針の急激な動きがゆっくりになったことに気付くまでしばらくかかった。まともな動きを取り戻した時計の針は、8時41分を指していた。
 彼方から破裂音がした。それに続いて多くの人が悲鳴を上げながら逃げてくる。Hoはその流れに逆らって破裂音のほうへ行くと、メトロの駅に着いた。そこで一人の男が地面に伏し、血溜まりの中に沈んでいた。脇には黒服に身を包む、全くの無表情な男が二人立っていて、どちらも突撃銃を持っていた。駅の中へ至る階段には数人の男が捨てられたように積まれている。
 地に伏す男は呻きながらも、何かを必死に言葉にしようとしていた。はじめのうちは不明瞭だったが、男が死に近づくにつれて言葉は大きくなっていった。ついに男が縋るように言う。我が王、我が王、我が王。その言葉を最後に、男は黒服の男達に銃で撃たれて死に絶えた。
 すると周囲に隠れていたらしい群集が現れ、黒服の男二人を取り囲んだ。そして大勢が声を揃えて言う。ありがとう、ありがとう、素晴らしい。Hoはわけがわからなくなり、群集のうちの一人を捕まえて聞いた。
「なぜ感謝しているんだ? 人を殺しているんだぞ?」
「お前は感謝しないのか? あいつは書がないと言ったんだぞ」
「書? 書とはなんだ?」
「この聖書に決まっているだろう。まさかお前も書などないなんて言うつもりじゃないだろうな?」
 その男はそう言って、どこからどう見ても何も持っていない手を誇らしげに指し示してみせた。
「ふざけているのか? 書なんてどこにもない」
「ふざけているのはお前だ! 信じられない! この書だ!」
「そんなものはない。イカレている」
イカレているのはお前のほうだ。誰か助けてくれ! こいつも不信心だ!」
 男が叫ぶと、周囲にいた群衆が悲鳴を上げて方々に散っていった。その中心に変わらず立っていた、凍りついた表情の男二人が沈黙のまま銃口を上げたのを見て、Hoはすぐさま路地に入り、そのまま駆け出した。
 黒服の男二人がすぐに追ってきたのを見て、Hoは横道に次ぐ横道を選んでは走った。そうしていくうちに入ったひとつの道を走っていると、Hoは突然暗がりから腕をつかまれ、引きずり込まれ、黒服の男二人がそこを通り過ぎていく騒々しい足音を聞いた。
 メガホンは沈黙を保ち、音は聞こえてこない。


 6:
 声がする。
 その声によれば、Hoには悔恨があったという。
 Hoを引っ張り込んだのは人だった。Hoはまたその顔に見覚えがあったが、はっきりとしたことはやはり思い出せない。広場で会ったあの人と同じく、過去に会ったことがあるという確かな思いだけがあった。
「正直者は身を滅ぼすぞ、Ho」
「私のことを知っているのか?」
「それは言えないきまりなんだ」
「あいつらは一体なんなんだ?」
「あの男たちはもはや詐欺師だよ」
「詐欺?」
「実際はすぐ目の前にあるはずの苦役の終わりのときを徒党を組んで隠し続け、諸手を挙げて晴れやかな顔で偽りの開放感を得るための動作を行わせるためにまた別の人間から騙し取った意味上の“安心”という単語をただひとつのポーズのために信じこませ、これまでの長い間に誰一人として気づくことのなかった大量消費されるその“数秒間ごと”を人質にとった挙句に代替物を要求し、その不快を隠すための感嘆を利用して、あの存在しない文脈の中に名前をひとつずつ加えていくことを続けている悪徳な連中だ」
「なぜあの男は撃たれた?」
「正直に衝き動かされ、ないものをないと言ったためだ。お前ももう少しでああなっていただろう。お前は今や彼らにとって狂人なのだ」
「ないものをないと言っただけだ」
「万民が信じるものを拒否する者は誰の目にも狂人として映る。どこの世でもそうだ」
「私は人を騙ったのか?」
「あと一歩だ。我々は先にあの橋を渡り、お前を待っているぞ」
 人は最後にそう告げ、街の中へと消えていった。Hoはその後を追おうとし、立ち上がったが、その瞬間にまたあのザー! というノイズを聞いた。
 すると巨大な爆発の轟音が鳴った。見れば、通りの向こう側に見える巨大な建造物の上部が崩れ、建物全体が崩落を始めていた。建物が崩れ落ちると同時に石の壁のような粉塵が舞い、業火が通りに沿って駆け抜けた。それから逃げるように悲鳴を上げて群集が逃げ惑い、Hoはその全てを見た。
 知っている。
 Hoにある予感が来た。目に映る光景の全てに、Hoは覚えがあった。どこかで見たような、という淡い記憶の片鱗でなく、確かに自分が過去にこの場所にいた、という絶対の思いがHoの中で起こった。
 音がした。ザー!
 月下の民達が走り、惑い、逃げ、燃え、喘ぎ、朽ちてゆく様を、Hoは知っていた。時は8時46分。音がする。ザー! 逃げ惑う民の一人が、Hoの身体をすり抜けていった。全てはHoに対しての凄惨なショーだった。 Hoにはそこに至るまでの過去の全てがあった。だが、それがなんなのか思い出せない。
 音がした。キー!
 すると見えていた全てのものがまた歪んで消え、Hoは再び暗闇に沈んだ街の中にいた。崩れたはずの建造物は変わらずあり、街中に着火されたはずの火はどこにもない。Hoは、道の端に花が供えられているのを見た。Hoはその花がなぜそこにあるのかを知っていた。だが、思い出せない。
 音がした。キー!
 音がした。ザー!
 声がした。あー。
 音がした。ゴー!
 音がした。ザー!
 声がした。あー。
 声がした。あー。
 音がした。キー!
 音がした。ザー!
 声がした。あー。
 音がした。ゴー!


 7:
 声がする。
 その声によれば、Hoには正気があったという。
 実在を攪乱され続けたHoが惑わされ続けた結果たどり着いた先は、狂いきることだった。Hoはそれまでの正気の一切を捨て去り、現実を探し続けることをやめた。完全な狂人と化したHoはまずこう言う。私こそが音だ、と。
 音は鳴り止んだ。
 Hoは続けてこう言う。全てはウソだ。私が何もかもを思い出せないのは、私が何もかもを知っていないからだ。私が知っていると思っていた全てのものこそがウソだ。なぜ全てのものがそこにあるのかを思い出そうとしてはいけない。全てのものなどどこにもないからだ。
 そのようにしてHoは自身で自らを騙り、何もかもを狂人として言った。実在が実在しない狂人にとって、実在する虚無はもはや脅威でない。Hoはそのように理解し、橋を目指すことにした。
 いつしか空からは雪が降り始め、闇に沈んだ街は静まり返っていた。止まっていた風は再び動き始め、雲はその風に煽られ揺らぎ、雪はその風を含んで降った。今や、全てが在るべくして在るようになりつつあった。その光景は、万民が見れば“狂っている”と口を揃えて言うだろう。だが完全な狂人と化したHoには、その光景の全てが余すところなく見えていた。
 群集は残らず虚無の家へと帰り、街からは人が消えた。その場にただ一人残されたHoは空を仰ぎ見、そこでHoが知っている通りに流れる全てのものに深く感じ入り、狂人として笑った。ハ・ハ・ハ・ハ。今や狂うことを恐れなくなったHoは音こそが私だと豪語し、完璧な狂人となることで怯むことなく笑った。ア・ハ・ハ・ハ。
 だがHoは、狂ったことで知り得た全てのものをひた隠しにして、常人の装いを着込んで歩いた。そのようにして再び自らを騙ったHoは夜を行き、その場所へ近づくたびに、何もかもを知ろうとしていた。
 導かれるようにHoはあの橋に着いた。その上から対岸にかけてかかっていた濃霧は、Hoがその場に立つと道を開けるように薄れ、進むことを容易にした。長く長く長い橋を渡ると、懐かしいほどに緑が咲いた野辺があった。そこにあのメガホンの塔はひとつもなく、Hoは平穏に満ちた。ふと振り返るとそこではまた深すぎるほどに深い霧が現れ、渡ってきた橋とその対岸を完全に隠してしまっていた。
 そのときHoは、風が吹き抜ける音にも似た、高い音の波を聞いた。音のほうを見ると、霧で霞んで見える景色の向こうに、巨大な影が見えた。近づいていくと、影は船だということがわかった。その船の傍には、あの広場で会った人が立っていて、Hoに向かって手を振っていた。
「よく来たな! これこそがお前に言っていた船だ」
「私も乗せていってもらえるな?」
「もちろん乗せてやるが、お前が乗るのはこの船ではないのだ」
「どういうことだ?」
「この船はまだ完全でない。目指す場所まで飛ぶための、加速装置が必要なのだ」
「それはどこにあるんだ?」
「今お前が持っているものだ。お前がここで知り得たもの全てが、この船を加速させる。さあ、船に手を触れてくれ」
 Hoは言われた通りに、その船に片手を触れると、船全体に文字のようなものが走った。するとそれが船に活力を与えたように、あの高い音を鳴らし、船は高く舞い上がり、高速で飛び去っていった。
 すると頭上からまたあの高い音が鳴り、空から同じ形の船がゆっくりと降下してきた。船は着地すると扉を開き、広場で会った人はその中へ乗り込んだ。Hoも促され、それに続いて乗り込む。船の中には人のほかに八人が居て、そこにはあの路地で会った人も居た。Hoはその九人の顔全てに見覚えがあり、そして思い出すことができず、そして今や彼らのことを知ろうとしていた。
「これがお前を運んで行く船だ。ここで次のお前を待つ」
「次の私が来るという保証はあるのか?」
「お前がここに来たから心配はない。それで、どうだ、我々のことは思い出したか?」
「もうすぐだ、きっと」
 Hoは思った通りにそう答え、船が動き出すのを待った。しばらくするとついさっきのように船に活力が与えられ、Hoは船が高く浮かびあがるのを感じた。そしてすぐに、船は加速をつけて動き出す。Hoはそのとき、自分でも気付かないうちに、ようやくだ、という思いを言葉にしていた。
 船が鳴らす高い音に紛れて、ノイズが紛れて聞こえていた。