摩擦ルミネセンス・前

それまで身を潜めていた暗闇が立ち上ってくるのを感じ、わたしは目を覚ましました。


目が覚めると、わたしの身体はわたしの思いと関係なく、上のほうへと浮かび上がっていきます。目を開けると、遠くのほうで微かに光が揺れているのが見え、そのときわたしは、また、自分がいつの間にか眠ってしまっていたことに気付きました。
 海の中は暗く、聞こえる音はありません。
 気怠い身体に起きる時間が来たのを教えるために、わたしは両手を胸の前で組んで、腕をぐっと伸ばしました。両手は水の抵抗を受けて、ゆっくりにしか動きません。わたしは腕を伸ばしながら深呼吸をしました。
 水が身体の中に入り、水が身体の外へ出て行きました。
 わたしは、海から生まれたのです。
 理由はよくわかりませんが、わたしはあるとき何かから呼び出され、海から生まれたのです。
 上ってくる暗闇がわたしの身体を持ち上げるように、わたしはゆっくりと水面に向かって浮かび上がっていきました。


わたしは水面に、がし、と手をつき、ぐい、と身体を持ち上げて、海の上に立ちました。首から下が水の中から外に出るとき、少しだけ息が止まるような苦しい感じがします。いつものようにその苦しさを我慢して、わたしは水の上に立ちました。風が吹き、わたしの髪を揺らします。
 海の上に立っても、海のほかには、何も見えません。
 わたしは目を覚まして、海の上に立つと、決まって西のほうへ行きます。西には岩場があり、そして、お姉さんがいます。
 そこに、お姉さんがいるのです。


やっぱり今日も、お姉さんはそこにいました。
「お早う」
 お早うございます。
 岩場はトンネルのようになっていて、わたしたちはいつもその中にいます。お姉さんは海のすぐそばにある背の低い岩に腰掛けて、月の浮いているあたりを見ていました。わたしは岩に乗って、お姉さんの隣に座ります。足元には波が寄せてきて、岩に当たって弾けます。波はお姉さんの足には当たっていますが、わたしの足には当たりません。お姉さんは足が長いです。
「雨になりそうね」
 お姉さんが呟きました。お姉さんの言葉はときどき、わたしの耳から身体の中に入り、胸のあたりまで降りてきて、心臓をつぶそうとしてきます。わたしはそういうとき、少しの間、息をとめることにしています。そうすると、少し楽になります。お姉さんの隣にいると、自分がとても小さく、情けないもののように思えます。
「雨の一粒がどうしてそこに落ちるか考えたことはある? あれは空で生まれた時点で、落ちる場所が決まっていると思うの。決まった場所を通り、決まった場所に落ちる。世界で一番強いものに、全てを決められているというわけ」
 息をとめます。息をとめます。息をとめます。
「ひどいことだと思わない?」
 わたしにはよくわかりません。お姉さんの言葉はときどきわたしには難しすぎます。お姉さんもそのことはわかっているようで、それ以上何かを聞いたりすることはせず、他の話をしてくれました。海のほかに生きられないわたしにとって、一番楽しいことはお姉さんの話を聞くことです。そのときも、わたしはお姉さんといろいろな話をしました。長く話しているうちに、わたしはすっかり眠くなり、そのうち意識をなくしました。


初めてお姉さんの姿をみつけたそのとき、お姉さんは泣いていました。
 お姉さんはわたしのことに気付くと、はじめまして、と言いました。
 そして次に、あなたは、絶対に《陸》に行ってはだめよ、と言いました。
 どうして泣いていたのか、聞いたことはありません。


それまで身を潜めていた暗闇が立ち上ってくるのを感じ、わたしは目を覚ましました。


わたしは目を覚まして、海の上に立つと、決まって西の方へ行きます。西にある岩場には、やっぱり今日もお姉さんがいました。わたしは急いで近寄りましたが、今日のお姉さんはいつもと様子が違いました。沈んでいるというか、暗くなっている感じがあります。
「眠れなかったの」
 お姉さんにそのことを聞くと、そう答えてくれました。
「誰かが、わたしのことをずっと見ていて――、わたしのことを、思い通りに操っている気がするの。わたしは自分の思い通りに動いているつもりでも、本当はずっと誰かに身体を動かされていたのではないかしら――。だって、そうでしょう、わたしがわたしの思い通りに動いていたなら――、」
 わたしは息をとめます。
「――わたしは、あんなことしなかった」
 わたしたちが眠れなくなるとき、それは、《見つけてはいけないもの》に近づいているときだと、お姉さんから聞いたことがあります。お姉さんはわたしに、そこへは絶対に近づいてはいけないと、そう言いました。
《見つけてはいけないもの》がなんなのか、わたしは知りません。
《見つけてはいけないもの》を見つけるとどうなるのか、わたしは知りません。
 そのときもわたしたちはいろんな話をして、わたしはそのうち眠りにつきました。


わたしはわたしがどんな顔をしているのか知りません。海を水鏡にしてみようとしても、波が止まず、そうさせてくれません。前に一度、お姉さんに聞いてみたことがあります。
「あなたはわたしにとてもよく似ている」
 お姉さんはそう言いました。
 それを聞いたとき、わたしは嬉しくなったのを覚えています。わたしが、お姉さんに似ているものを持っていると、お姉さんから聞いたことが、嬉しかったのを覚えています。
 わたしはわたしがどんな顔をしているのか知りません。