摩擦ルミネセンス・後

それまで身を潜めていた暗闇が立ち上ってくるのを感じ、わたしは目を覚ましました。


わたしは目を覚まして、海の上に立つと、決まって西の方へ行きます。西にある岩場には、やっぱり今日もお姉さんがいました。お姉さんは、今日も様子が違いました。お姉さんはわたしの姿を見つけると、全く表情を変えないまま、言いました。
「操り糸を切るわ」
 お姉さんの顔は、薄暗く影が差しているように見えました。
 きっと、ずっと眠れていないのだと思います。
「誰かの操作じゃなく、自分の自由な意思だけが動いていると思えることを――、自分ができると思っていることを、その通りにやってみたいの。でも、こんな何もない場所じゃ、できることなんて、どこかへ向かう、くらいのものでしょう? だからね、」
 わたしはそのとき、耳を塞いでしまいたいと思いました。
 なぜでしょう。
「《陸》へ行こうと思うの」
 わたしの息は止まりました。
 わたしは、お姉さんがどうしてそんなことを言うのか、わかりませんでした。
《陸》に行ってはいけない――、と、《陸》に上がったものは、みんな死んでしまう――、と、
 ずっと前に、そう教えてくれたのは、
「《陸》に上がったら死んでしまうから、行ってはいけないと、あなたに教えたのはわたしでしょう? そのときからあなたは、――何となく本当に《陸》に行ったら死んでしまうような気がしている――、のでしょうけれど、――実際はそれを教えたわたしにも本当かどうかわからないのよ? わたしたち、ずっと、ありもしないものを信じさせられている――、それ自体、操られていることだと思わない?」
 わたしにはよくわかりません。お姉さんの言葉はときどきわたしには難しすぎます。お姉さんもそのことはわかっているはずですが、そのときのお姉さんは他の話をしてくれませんでした。
「明日、あなたが眠っているうちに、わたしはここを離れるわ」
 どうして、そんな顔をするのでしょう。
 それではまるで、二度と会えないみたいではないですか。


海のほかに生きられないわたしにとって、一番楽しいことはお姉さんの話を聞くことです。ですが、それが今、失われるような気がしていました。
 お姉さんはきっと、《陸》に行ったら、死んでしまいます。
 わたしは、お姉さんのことを、行かせたくありません。
 ですが、お姉さんは、できると思っていることを、その通りにやってみたい、と言いました。
 わたしがお姉さんのことを止めてしまったら、お姉さんの思いを否定してしまうような、そんな気がしました。
 わたしは、本当なら、全てが、お姉さんの思う通りにいけばいいと思います。
 ですが、お姉さんはきっと、《陸》に行ったら、死んでしまいます。
 困りました。
 困りました。
 困りました。
 その日は、いつまで経っても眠くなりませんでした。


わたしは、音を立てないように、西へ向かいました。
 西にある岩場に、お姉さんはいました。お姉さんは何かを考えるような様子で、海の向こうのどこかを眺めているようでした。そのとき、いつかお姉さんが言った通りに、辺りには強い雨が降っていました。
 わたしは息をとめました。
 わたしは、雨の音に紛れて歩き、お姉さんのすぐ後ろに立ちました。
 お姉さんは、わたしに全然気付きません。
 わたしは、すぐ足元にあった岩を持ち、そのまま、お姉さんの頭に打ち付けました。
 そのまま、何度も。
 何度も。
 何度も。
 お姉さんは、《陸》に行きたいと言いました。
 だから、きっと、お姉さんは死にたいのだと思います。
 だから、わたしは、全てがお姉さんの思う通りにいくように、してあげることにしました。
 つらいことですが、仕方ありません。
 何度も打ち付けていくうちに、段々と力が強まっていくのを感じました。何度目かの打ち付けで、お姉さんの頭が割れたかと思うと、お姉さんは身体が全て水になって、死にました。


わたしはその場に膝をついたまま、しばらく動けませんでした。
 気付くと、雨は止んでいました。
 そのとき、わたしのすぐ足元で、水が揺れていることに気付きました。
 そこでは、ついさっきまでお姉さんだったその水が、岩の間に溜まって静かに月の光を受け、わたしの顔を映し出していました。そこに映っていたわたしの顔は、本当に、本当に驚いてしまうくらい、お姉さんにそっくりでした。
 それを見て、またお姉さんのことを考えたわたしは、声を上げて泣いていました。


わたしは泣き続けました。
 ずっと。
 ずっと。
 ずっと、眠らないまま。


そして、


嗚咽も出なくなりかけた頃――、わたしは背後にふと気配を感じ、振り返った。そのとき、辺りは陽が沈んだ直後のようで、まだ薄暗い程度だった。一体、どれだけの時間を泣いていたのか――、とても長い時間が経っているように思えたが、知る術はなかった。辺り一面には海しかなく、時間の経過を確かめられるものは、何一つなかったからだ。
 と、わたしは、その薄暗闇の中に、少女が立っているのを見た。
 そして、思わず声を上げそうになる。
 少女の顔が、水に映っていたわたしの顔と、全く同じだったからだ。


わたしは驚き、もう一度あの水で自分の顔を確かめる。
 だが、そこでわたしはまた声を――、嗚咽を漏らしそうになった。
 そこに映っていたのが、あのお姉さんの顔と、全く同じだったからだ。


同時に、わたしは過去にお姉さんがわたしに言ってくれていた全ての言葉の意味を知り、お姉さんが抗おうとし、お姉さんが抗うことのできなかったものの存在を知った。
 わたしは呆然として、また視線を落とした。すぐ足元では、水が岩の間に溜まっていた。いつかお姉さんだったその水は、月の光を受け、輝いていた。わたしはその水に手を触れ、残らず身体の中に吸収した。
 わたしは、顔を上げた。
 そして、過去にお姉さんがそうしてくれたように、少女に手を差し伸べた。